• Ishikawa-legi

無宗教



プラハで夜、教会コンサートを聞きに行ったとき、また一つナゾが解けたような気がしました。それはチェコの人がキリスト教とどのようにおり合っているのか?という問題についてです。

チェコでは次から次から国外から支配者がやってきて、人々を容赦なく苦しめた歴史があります。政治と宗教のセットで抑圧したから、人々は生活と心の内外両面からやられていたことになります。

チェコ人はその度ごとに内乱を起こし、独立を成し遂げてきました。とは言えそれはつかの間で、ひっきりなしに次々と強権に支配され、そんな中でどうやってやり過ごしてチェコ人マインドを保ったのかと思っていたのですが、ひょっとして”なびいたふり”をしていたのかもしれません。

というのは、上の写真のようなゴシックな教会の中でコンサートは行われたのですが、演目が「バッハのトッカータ」「ヴィバルディの四季」「モーツァルトのフーガ」「ドボルザークの新世界」「シューベルトのアベマリア」などで、たとえば「アベ・マリーア♪」と言葉でマリア様を讃えていているものの、ちっともそんな風に聞こえないのです。むしろ普通に女性の優雅さを歌っているというか・・・。

なんというか、「神を賛美せよ」と歌っているのに、その実、神や信仰とは違う全然別のことを歌っているというか、神の名を借りて自分たちの言いたいことや気持ちを表現しているというか・・・。神の着ぐるみを着ているよう、とでも言えばいいのか・・・。

この”ふり”感覚というのは、実はチェコ人だけでなく、レオナルド・ダビンチの絵にも感じました。ダビンチの絵にはとてつもない無限性と普遍性が描かれているのですが、それが「神である」とは絶対に言っていないのです。題材がキリスト教であるにもかかわらず、です。

この点は不思議だな、と以前から思っていました。ダビンチはキリスト教の擁護者であるのか、ないのか。「変なの」という感じです。

きっとみんな、”ふり”をしてやり過ごしていたんだろうと思います。とても賢いやり方だと思いました。


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